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自分の人生をデザインする!

人生と働き方改革の7年間:無職のシングルマザーが望む働き方を手に入れるまで

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7年半前の2010年4月、春の気持ち良い陽気とは裏腹に、私は先の見えない霧の中を歩いているような状況でした。子供2人連れて離婚した私は無職で収入がなく、待った無しの支出と子供達の世話と就活に追われていました。でも決して心身のバランスを崩すことなく、前向きに一歩づつ、自分の人生のコントロール権を取り戻せたのは、悩みを聞いてくれた友人、親戚と2冊の本のおかげでした。

 

私が経済評論家 勝間和代さんの著書「インディペンデントな生き方実践ガイド」と訳書の「史上最強の人生戦略マニュアル」に出会ったきっかけと、無職のシングルマザーの私が、ハローワーク通いから始まり、好きな仕事を選び続けることで、望んだ働き方と収入を手に入れられるようになったこの7年間について書きたいと思います。そもそも親がきちんとした教育環境を与えてくれたこと、運やタイミングにも恵まれたことと、周りの人たちが幾度となく差し出してくれた救いの手なしでは到底できなかったことですが、それでも小さなプラスの習慣を綿々と重ねて続けてきた事が、現在の自分の状況を作り出していることは間違いないと思っています。

 

西原恵理子さんや勝間さんが幾度も言われている「女性が自分の経済力を持つこと」の重要性について20代−30代の私は全く分かっていませんでした。身近な女性のモデルケースである母は英語を学ぶのが好きで、英語教師の資格を持っていました。子供が小さい頃は育児優先にしつつ、自宅や教室を借りて英語塾の先生として楽しみながら扶養範囲で働いていました。子供が自立したら留学に行き、生きた英語をまた学びたい、と思っていたようです。夫婦仲が円満でしたので、娘もいい大学に入り、いい会社に入ればきっといいご縁があって人生安泰だろうと想像していたのでしょう。残念ながら、大好きな母は、私が大学在学中に事故で急死してしまったので、そこから先の生き方について語り合うこともできませんでした。

 

私は母がいなくなった後も家事をしながら大学に通い(自宅通学でした)無事に新卒で第一希望の自動車会社にデザイナーとして就職できたのです。大好きなデザインの仕事に邁進し、順調に職級も上がって社内結婚したまでは、母の希望通りだったかもしれません。不穏な空気が漂い始めたのは私が第1子出産後、育児休暇から復職して1年後あたりです。私は一度も辞めたいと思わなかった、大好きな会社を元夫の意思で退社することになったのです。その時点ではもちろん将来離婚するなんて想像もしていませんでしたが、互いの信頼関係に深いヒビが入ったきっかけになった出来事でした。

 

自動車会社の退職後も、仕事は何かしらしたかったので、知人のギャラリーの店番、美容室でのフロントや自宅でのグラフィックデザインなど、週3回程度は仕事をしていました。すでに夫とは別居期間もあり、遠くない未来に離婚するだろうと感じ始めた2008年に、正社員の職を探し始めました。

 

「インディペンデントな生き方実践ガイド」「史上最強の人生戦略マニュアル」を始めとした自己啓発本を多々読み始めたのもこの頃でした。なんとかして沈みゆく船のバランスと立て直したい、そんな一心でした。当時は現状と書かれていることのギャップが大きく、衝撃を受けながらも全てをすぐ実践することはできませんでしたが、少しづつ自分の血肉になるように、書かれている言葉を常に意識をするようにしていきました。・問題はひとりでに解決することはない・人生の責任は自分にある・悪いと認めなければ変えられない・私たちは自分の扱い方を人に教えている等々。。これまで誰も教えてくれなかった、自分で学ぼうとしなかった生き方が明確に言語化されていました。

 

仕事の相談をした知人が紹介してくれた戸建て住宅の建設・販売会社が、建築の知識もゼロの私を採用してくれ、カラースキムの仕事を任せてもらえたことはとても有難かったです。が、家族経営の小さな会社で、残業できない、土日出勤できない私に徐々に不満がたまっていたようでした。離婚までの詳細な経緯は省きますが、2010年3月中旬に離婚、その直後の自分1人で子供たちを育てていかなければならないスタートラインで、2年勤めたその会社をパワハラに耐え切れず退職しました。

 

調停離婚で取り決めした養育費は家の家賃に消え、とりあえず雨露はしのげても光熱費、食費、子供2人にかかる費用諸々は貯金を切り崩しながら仕事を探す日々が一ヶ月ほど続きました。前の会社に勤務しながら資格をとったインテリアコーディネーターの仕事に応募するも、土日出勤できないと採用には至らず、ハローワークへ。とはいえ、当時小5と4歳の子持ちで土日出勤や残業、遠方の勤務は難しい。退社して8年、同じ業界に戻れることもないと思っていた40歳。これから子供2人育てられる収入が見込める、自分が楽しめる仕事なんてハローワークにはないのです。

 

定期的な収入がない状態。。経済的な困難をこれまでさほど味わったことがない私には就職の目処が立つまでの、たかだか1ヶ月が、とてつもなくメンタルに堪えました。。正直、夜のお仕事を考えたこともあります(需要があったかどうかは別として。。苦笑)そこで思いとどまったのは、ともかく子供に極力寂しい思いをさせたくない思いがあったからです。昼間はどんなに忙しくて会えなくても、夕方保育園にお迎えに行ったら、ご飯を作って、3人で一緒に食べて、一緒にお風呂に入って、寝る。それだけは死守しないと、きっと後で後悔する。

 

一時期のつもりでも、好きな自動車業界やデザインの仕事で働けない事は、1mmも経験もスキルも積みあがることがなく、時間だけが過ぎていくだけだ。。。とそんな風に逡巡しながらも貯金は減っていくし、まずは何をしてでも日銭を稼いで口に糊しなければなりません。

 

そんな時、ハローワークのサイトで見つけた「〇〇物流 事務作業 パート募集」多分時給は最低額に近かったと思いますが、〇〇物流は、私が自動車会社にいた時の取引先の子会社でした。歴史あるクロスメーカーで、製品の品質も、営業さんのご対応もとても良く、その営業所も物流会社も同じ敷地にあるようでした。勤務地は自宅から車で10分、どうせならたとえ事務でも、慣れ親しんだ会社や業界関連のほうが良いと思い、応募することに。まだ自動車会社にいるデザイナーの友人を通じて、親会社の営業の方に、まだ事務の募集をしているかどうかの確認の為、連絡を取ってもらいました。すると、なんとかつてお世話になった営業さんがまだいらっしゃり、「ええ、sannaさん??丁度この事務所のデザイナーが一人辞めたいと言っていて困っているので、よかったらうちでデザイナーとして働きませんか?」とのお誘いが!

 

青天の霹靂でした。事務所に2人しかいないデザイナーが丁度辞めるなんてタイミングもさることながら、8年のブランクとクロスへの経験値がなく、40歳(当時、転職は35くらいまで、と言われていました)という年齢や子持ちという背景もあったのにお誘い頂けるなんて!!もちろんまずは面接させて頂くことにして、2回の面接後、無事、6月中旬から自動車のシートクロスデザイナーとして仕事を再スタートできました。

 

入社後1年は契約社員でしたが、その後正社員となり、計6年そのクロスメーカーで働かせて頂きました。自動車会社での経験値に加え、年齢も考慮する給与体制だった為、どうにか3人での生活が回せるようになりました。クロスデザインの仕事自体はとても楽しかったですし、客先である古巣の自動車会社にはまだたくさん友人知人がおり、それも私の強みとして活かせたかと思います。営業所のメンバーも人間性の素晴らしい方達で、これからもずっと続くだろう、大切な出会いを頂きました。今でもたまに営業所に顔を出してお昼ご飯を食べたり、飲み会に参加させてもらっています。

 

ただ、当時はまだ会社がややブラックな点があり、私は6時退社だったのですが、他のメンバーはいつも延々サービス残業。ただでさえ一人だけ早く帰ることに心苦しさを感じていたので、組合や上司には残業代を払ってください、と意見をしていました。それが私の退社後のここ1年で改善され、皆さん残業代をちゃんともらえるようになったそうです。本来は残業なしで帰宅できるよう効率化を進めるべきなのですが、実情は基本給がそこまで高くなく、また一人あたりの業務が慢性的に過多のため、実際は残業代が出ることで助かる社員も多いようです。何れにしても、お世話になった会社で良い改革が進んだのはとても嬉しく感じます。

 

勤続5年を過ぎた頃、もう少し収入を上げたい、海外との仕事がしたい、在宅で仕事できる日があるといいな、、というぼんやりした希望を持っていたのと、たまに来る意義の感じられない指示の仕事や慣習で変えられない非効率な一部の仕事のやり方と、意見しても変わらない体制に辟易していた事もあり、モヤモヤした気持ちを少し抱えていました。とはいえ、居心地が良いメンバーと仕事内容、通勤が車で10分なんてこれ以上良い条件はないだろうと思い、積極的に転職活動はしていませんでした。

 

それが 2015年10月に、ヘッドハンティングの話が3件続けてあったのです。過去5年間、これまで一度もそんなことはなかったのですが。3件とも年収はUP、勤務地も2件は車で30分以内なので圏内です。こんなに立て続けでお誘いを頂いたのはきっと、転職しなさいという何かのお告げに違いない。。(笑)と思い、転職しようと心が決まりました。その中で一番年収条件の良い外資のメーカーから詳しくお話を聞くことにしました。

 

その会社だけは勤務地が遠く、自宅最寄駅から電車で1時間半かかる都内でした。シングルマザーで、家事育児も誰かに頼れる状況でないので、通勤は到底無理ですとご説明したら、日本オフィスのダイレクターが、「在宅勤務でも良いですよ」と伝えてくれたのです。週1回、10:30~の社内ミーティングに出てもらって、あとは客先の自動車会社との打ち合わせに直行直帰して、やるべきことだけやってもらえればそれで良いです、と。そんな働き方があるのかと思いましたし、丸々私を信用してくれているから言えることです。また、何度か面接を通じてダイレクターとお話ししていく中で、「北米副社長が候補者が複数いないと納得しないので、他に2人候補の方がいますが、私はsannaさんとお仕事したいと思います」と言って頂けた時は本当に嬉しかったです。

 

私がヘッドハントされた理由としては

人脈:客先の自動車会社で働いていた為

即戦力:革のデザイン開発業務はクロスのデザイン開発スキルがあればこなせる

コミニュケーション能力:一人での営業活動でも任せられる

 

とのことでした。なんか過大評価のような。。と感じましたが、そう見込んでくれたダイレクターの気持ちと、私を推薦してくれた知人の期待に応えたい、何よりこんなチャンスを逃したくない一心で自分を信じ、全く経験のない英語も頑張りました。何度かの面接の後、なんとか無事OKをもらうことができ、2016年3月に今の会社に転職、現在に至ります。

 

好きな自動車関連デザインの仕事、在宅勤務、自由な時間の増加、海外との業務、海外出張、大幅な収入UPと、過去理想として思い描いていた全てが今、手元にあります。本当にストレスゼロです。自分が経済的にも、時間的にもゆとりを持てた今になって初めて、いろいろな過去のネガティブな思いが消えていった気がします。

 

ただ、今も会社に依存しているリスクはありますし、常に自分自身を向上させないといけないという緊張感もありました。この会社に入って1年は慣れるのに必死でしたがやっと、業務外に学びたいという気持ちが芽生えてきました。そこで久しぶりに7月に勝間さんの書籍を検索して、「勝間塾」を知りました。そこからは何もわからないまま勝間塾生に登録、すぐに8月の月例会に参加。急遽、後オフ会にも参加し、勝間さんに直接お礼を申し上げることもでき、今年は私にとって区切りの夏でした。

 

紆余曲折を重ねながらも、精神的、経済的に自立できたのは、間違いなく前出の2冊の本を読み込み、迷った時は羅針盤のように読み返して、極力それに沿った行動を取ろうと努力してきたからだと思います。

 

勝間さんが「史上最強の人生戦略マニュアル」の帯に書かれていたこと

「仕事においても、家庭においても、自分の意にそぐわない、不都合なことがいろいろ起きていた。そういった問題に対して、自分が正しければ、問題は自然と解決するはずといった誤った思い込みを持っていたことを今でも忘れない。しかし、そんな誤った思い込みをこの本は強烈に砕いてくれた。この本を読んだことで、私も現実に立ち向かうことができ、それから数年間かけて、自分の人生のコントロール権を取り戻すことができたのである」

 

まさしく、私もそう感じていました。でもものさしにするべき「正しいかどうかではなく、うまくいっているかどうか」ということが解っておらず、うまくいってないことは「自分の責任ではない」と思い込んでいました。いつまでたっても解決しない問題に長い間苦しんで苦しんで、6年かかってやっと自分の人生のコントロール権を取り戻した実感があります。働き方はほぼ生き方にもつながる、ということを身を持って実感しています。

 

一気に書いてしまいましたが、またこれらの体験で考えたこと、得られた気づき、日々の出来事を少しづつ書いていきたいと思います。

 

長文を最後までお読み頂き有難うございました!